苦悩
先の記事を書きながら、心に浮かんだことがあるので、書き留めておく。
私は数年来、ライターの石井ゆかりさんの記事を愛読しており、いくつか思い浮かぶフレーズを引用しながら、話を進めたい。
欲していたのと違うものが手に入ったとしたら...
見えなかった星々を見ることができた人類は、古代から遠い天上に恋い焦がれて、いつかもっと知りたいと願っていたのかもしれない。
見ること、知ることができたら、今度は苦悩を抱えることになったなんて。
もしもそうだとしたら、大変もったいない話だ。
石井ゆかりさんの記事で、以前こんな話があった。
志して努力を重ねて、何かに成れたとする。
もしもその何かが、実は本心から求めているものではなかったとしたら。
その苦悩は、いかばかりでしょうかと。
では、人類が欲していたものは本当に、微に入り細を穿ち、遠く宇宙の向こう側や、原子の構造を解き明かすことだったのだろうか。
いつだったか、炊飯器の開発者へインタビューした開発現場での出来事を、ドラマ仕立てで再現したテレビ番組を見たことがあった。
炊飯器が開発される以前、お米を炊いてすぐに食せるとは限らず、冷たいご飯を口にすることはよくあることだったという。帰宅した家族に、美味しくて温かいご飯を食べさせたい、その願いから炊飯器が開発されたそうだ。
現代の生活に慣れていると、温かいご飯を食すことは当然のように感じてしまうが、このありがたさは大変なものだろう。
物事が大きくなってしまうとどうしても本質が見えにくくなるが、ことの始まりはそういう簡素な願いだったのではないだろうか。
欲していないものがふんだんに手に入ったとしたら...
欲していないのに、余る程手に入ってしまった場合というのも、苦悩することだろう。
例えば、才能だ。
才能がない、才能があるでしょうか、才能が欲しい。よく耳にする気がする。
だがもし、多くの才能がふんだんに与えられたとしたら。
ゆかりさんの記事より。
~~~~~記事より引用 ここから~~~~~
「才能」は、社会的には「責任」と見なされることも多々、あります。
それができるのだから、それをしなければならない。
それができるということは、それをすることが使命だということだ。
そんなふうに、発破をかけられることがあります。
~~~~~記事より引用 ここまで~~~~~
多くの人に必要とされる才能というのは素晴らしいが、「必要とされてしまう」ことによる苦悩はいかようだろう。
例えば、誰かに苦しみを告白したとして、自慢とすら受け取られかねない。
人が他者から共感を得たい欲求をもっていることは、SNSで多く活用されている事例からも、明らかなことだろう。
共感を得ることが難しい苦悩は、明かすことすら易くない。
才能を用いる場によっては、明かすことを制限される場合もあるだろう。
限りある時間を、何に対しどれ程費やせばよいのだろうか。
欲したものが手に入るとしたら...
欲しているものそのものが、手に入るとしたら、どうだろう。
ゆかりさんの記事より。
本当に欲しいものが今にも手に入りそうになって、躊躇する、踏みとどまってしまう苦悩というのもあるだろうと。
得たいものが伴う喜びが大きい程、そこに飛び込む勇気も沢山必要なのだろう。
まとめ
ここまで書いて、自分が何を言いたかったのかやっとわかった気がする。
人は、喜びにあたってすら、苦悩しようと思えばいくらでもできるらしい。
喜びは素直に受け止めたいものですね。
余談:私の思考のソースが、現在どれだけ石井ゆかりさんに依存しているのかしみじみわかりました…orz