さみしいということ

さみしい、というと、どうもネガティブな印象がある。さみしい人。さみしい場所。

だけどもう少し踏み込んでみると、それだけじゃない。

さみしければ、誰かに連絡を取ろうとするかもしれない、人が集まる場を設けようとするかもしれない。さみしいことが、意欲を生み、行動の動機になることだってある。

さみしい気持ちって、ひどく人間的だ。誰かと居るとか、みんなと居るかどうかに関わらない。その時の心の在り方で、さみしさは全く違ってしまう。

 

さみしさには、特定の相手に対するものと、不特定多数に対するものとがあると思う。

近しい間柄の人物と一緒にいなくても、人が集まる場所にいると、何となく安心する。

加えて、さみしさには、物理的な距離感に対するものと、心理的な距離感に対するものとがあると思う。

近くにいない、一緒にいないから、さみしい。

伝わらない、理解できない、通じ合えないから、さみしい。

 

私はというと、さみしさを、誰かの活動を目にすることで、紛らわせようとする癖がある。

実はこの前まで気付かなかったのだけれど、占いを読むのを控えようと、占い関連のフォローを外したところ、やたらとさみしく感じた。毎日の占いをチェックするという、習慣がひとつ減ったことは思いの外大きな変化だった。Twitterのつぶやきやブログの記事を読んで、誰かの活動からその存在を感じることで、孤独感が癒されていたらしい。