ダウジング

年末が近づく。気温が下がり、着込む衣類が厚くなり、温かい飲み物が恋しくなる。

この季節になると毎年、道行く人の喜びに満ちた表情が目につくようになる。
大好きな人、大切な人、愛する人。それらの人々と共に過ごせる喜びを待ち遠しく、せわしない日々を過ごしている様子が、はためにも微笑ましく映る。

しかし今年は、違った手触りを感じている。

表面的には皆、幸せそうにしている。笑顔で、喜びの言葉を口にしている。しかしどこか、違うのだ。喜ばしい報告に、冷たさや不安などの暗い影が、見え隠れしているように見える。

誰しも、自分の暗い部分をあからさまにはしたくない。わざわざ目に見える場所に広げて、ひけらかしたりはしない。好印象を持たれるような特性で、自分の個性を埋め尽くそうとする。だから表面的には、いい人を演じているように見えても、ごく当然のことだ。私自身、そういう生き方は社会性を身に着けた人物として自然なことだと思うし、罪悪感を持つ必要はないと思っている。

だがしかし、ここでおかしなことが起きているように見えたのだ。
喜ばしい生活の報告をすることで、不足している部分の悲しみを隠している様子を。
そして、不足している部分を持っている他者を、心の底で強く羨望する様子を。

同時にまた、次のような状況が見えてきた。
上記で不足している部分を持っている他者もまた、別の不足に苦しんでいるのだ。

もしかしたら、喜びに満ちているように見えるのは、苦しみを打ち消すために、デフォルメされ強調された姿なのかもしれない。
どんなに幸せそうに見えたとしても、どれほどの悲しみを抱えているかなんて、わからないものだ。
誰しも笑顔を装いながら、心は満たされずに乾いているなんて、とても悲しい。

本当は皆、ただささやかな喜びを求めているだけかもしれない。
そのひとしずくが得られなくて、渇きを埋めるために生じた別の欲求が、さらにまた大きな空洞を生んでしまうのだろうか。

聖なる夜には、溢れそうな悲しみや苦しみの中から、もう一度、始めのひとしずくを掬い上げようとするような、そんな魔法がかかるのかもしれない。

そんなことを思った。