ゆっくりと死んでゆく世界
以前から感じていた違和感が、やっと明確になってきた。
以前(2~3年前位だろうか)、所ジョージさんが言っていたことがある。
「皆で毒を薄めて飲んで、ゆっくりと死んでいく世界」
その時「正にその通り」だと思ったけれども、具体的な、明確な事例は浮かんでこなかった。
このことに関して、言葉になってきた部分がある。
現代人の多くが従事しているであろうデスクワークは、ある程度の時間、同じ姿勢を取り続ける必要がある。その間、目を使い、手を使ってキーボードを操作する。
これは、見た目上は労働というには動きが少なく見えるものだろう。しかし、目も手も細かく動かし続けるし、同じ姿勢を取り続けることで、筋肉は固くこわばる。これだけでも、身体は疲労する。
また、人間は集中力を長時間継続できるものではない。勉強熱心な受験生にはよく言い聞かされることだが、効率の良い学習のためには、ある程度集中したら、少しでも休憩を挟むことだと。
以前から薄々感じていたことだが、デスクワークが主なオフィスでは、キーボードを操作する手が動いていないと、「仕事をしていない」と見なす人もいるようだ。
しかし、その間も頭の中では思考しているものであり、精神活動を行っている以上、エネルギーを消費し、立派に「労働している」のだ。そもそも、オフィスワークに対する認識自体が、「肉体労働よりは楽」という固定観念が強い気がする。
このあたりに違和感がある。
つまりは、見た目上の「動き」=「労働」とする観念なのだと思う。だからこそ、「より多く身体を動かしている」⇒「真面目に働いている」という図式が成り立っているように思う。
そして、この観念が、オフィスワークをストレスフルなものにしているのだろう。
見た目上の動きのみを労働と見なす思考は、あまりにも古過ぎるというか、合理的でなさ過ぎる。さらにはその思考に縛られているが為に、誰がより仕事をしているとか、していないとか、そういう不信感や不満を増長させているように見える。
プログラマという業務は、いかに効率的な(その中には他者とコミュニケーションが取り易いとか、メンテナンスし易いとか、単に短縮されているというだけではない様々な意味が込められているはず)コードを書くかということがまずある。そして、プログラミングされたソフトウェアを作成することにより、人々が日常にある雑事を効率的に済ませる手助けができる。さらには、人と人や人と物、誰かと誰かや、誰かと何か、などの橋渡しをすることができると思っている。
しかしながら、自身の経験と人伝に聞いた話からすると、どうもオフィスというのは私が思っていたような創造性とは程遠く、まるで相互監視システムのようだと思った。
監視体制に特に手を貸しているのは、個人の劣等感のようだ。劣等感が強いが故に、他者を抑え込むことで己を有利にしようとしているように見える。特に管理者などの立場にそのような人物が立つと、場の空気まで染まるから、厄介なものだ。
そもそも、自分の仕事に集中しているなら、どうしてそんなにも人を観察する時間を持てるのだろう?不思議でならない。
2年ほど前、ひどい目にあって自主退社を余儀なくされた、会社の夢を見た。
「辞めてよかった!」と叫んでいた。
思い出すのはもちろん嫌だし、夢に見ることなんてこれまでなかったので、何かしら自分の中で、昇華した部分があるのだろうと思った。
それにしても、薄めた毒をこっそり捨てるやつがいないか、お互いを見張りながら毒を飲み合う(飲ませ合う)って、一体何のプレイなんでしょうね?
根底にある信頼感が薄過ぎるように思います。。
私はそんな世界はごめんです。