久しぶりの小説ー『ポトスライムの舟』

 このところしばらくは実用書ばかり読んでいた。

 物語を読むのが楽しいのは、話の中に何かしら、自分の世界と重なる片鱗を感じるからではないかと思っている。それはまた、しばらくの間小説を読むことを避けていた理由でもある。そういう欠片を見つけると、心が揺さぶられて、ひとしきり物語の世界に没入したり、登場人物に感情移入したりする。

 安定した心理状態の時であれば、自分の生きる生と別の生、別の世界、別の時間の流れを垣間見るひとときとして、大変有意義な時間になる。だけど、どうにも悲観的な考えから抜け出せない時などに、退廃的な世界観だったり、深い悲しみを描き出したりしたようなものを読んでしまうと、非常にしんどい気持ちになる。たとえそこから展開して、開放感のある結末を迎える筋だったとしても、長編では途中、持ちこたえられそうもない想いがして、途方に暮れてしまう。

 

 そんなどちらかというと低空飛行気味な心理状態から、久しぶりに小説を読む気になったのは、偶然目にした「女子力」に関する本『ダメをみがく: “女子”の呪いを解く方法』の中で紹介されていた、著者である津村 記久子さんの著作に、大変興味を引かれたことがきっかけだった。

 「十二月の窓辺」という作品の中で、パワハラを受けた実体験の一部を基にしたとあった。また、著者が同世代であることにも興味を持った。

 

 もう一年以上も前のことになるが、自身もパワハラを受けた経験がある。(それより以前には、パワハラをしてしまうのではないかという恐怖に駆られた経験もあった)その経験によって傷ついた自分を、認めることができずにいたように思う。しばらくの間、読みたいと思いつつ、手を付けられずにいたのも、心の中に澱のように溜まっていた思いがあったからかもしれない。

 それが、どこがどうなってこの本を開けたのかはっきりとはわからないが、つい最近、ああ、私は傷ついていたんだなあ、とか、対人関係に不安があるんだ、と、認められるようになったことと、どこかで繋がっている気がする。

 

 感想を書きたくて記事を作成したのだけれど、上で自分のことに少し触れただけなのに大変時間を費やしたので、続きは今週末をめどに追記しようと思う。

 

ーーー 5/18 追記 ーーー

 二作ともに、それぞれ陰鬱な光景で始まっている。
 「ポトスライムの舟」では、妙な刺青を入れる、妄執のようにも見える精神状態から始まっている。そのくだりは閉塞的で、身につまされるものもあり、主人公の憂鬱な気分をなぞるようにして味わった。

 

 主人公のように工場のライン作業ではなかったとしても、ものさしが違うだけで、ある場所から見れば、仕事の多くの部分は繰り返すことの中にある。それは年季が入って、いい仕事ができるようになることでもあるが、反面、いつまで同じことを続けるのだろうかという、誰にも問いようのない疑問が湧く要因にもなりうる。

 

 始まりは重々しいのだけれど、物語が進んでいくにつれ、登場人物たちとのやり取りが軽快さを増して、そこはかとなくほっこりした気持ちになった。
特に、友人の娘である恵奈と二人きりで過ごした場面と、ポトスを食べるという想像を楽しんでいたのが、毒があり食べられないと知った時の落胆ぶりを、失恋になぞらえていたのに、ほのぼのとしたおかしみがあった。

 酸素が薄くなったかのようなうっすらとした窒息感から、次第に大気に風が生まれ、空気がかき回されてゆく。読んだ後の感触は、夏のプールで泳いだ後の、水から上がった気怠さと爽快感のようだった。

 

 今日は書ききれなかったので、「十二月の窓辺」に関しては次の記事にしようと思う。

Amazon.co.jp: ポトスライムの舟 (講談社文庫): 津村 記久子: 本

渇きと癒し

 昨日友人と会った。長い付き合いになる、数少ない友人のひとりだ。彼女と話していて、つくづく思ったことがある。

 

 私は、あまり一般的とは言えない人生を歩んでいる。ごくシンプルには、ドロップアウト組、といったところか。それだけが理由ではないだろうけれど、自分の状況を理解してもらうのが、やたらと難しい。昨日は、仕事に関する今後の予定のことで、彼女と意見が食い違ってしまった。しかしながら、親しい間柄だからこそ余計に、うやむやに同意してやり過ごす気にはなれず、きっぱりと否定してしまい、嫌な思いをさせたかなあ、と思った。

 友人からしてみれば、私が早く元気になって、安定した仕事に就けた方が、彼女自身も安心できるのだろう。あくまで好意から、先のことをアドバイスしようとしてくれたのだろうと思う。

 しかし、私が感じていることを正確に伝えるには非常にややこしく、その場で伝えるのは難しかったため、短く彼女の言葉を否定する形になってしまった。このような結果にしないためにも、改めて自分の考えをまとめたいと思った。

 

 この後長々と文を連ねていたのだけれども、自分で読み返しても焦点がわからなくなる程長くなってしまった。仕方ないので割愛してまとめると、過去の職歴の経緯で、私は会社というコミュニティに所属することに対して、強い抵抗を感じるようになったということだ。恐らく自分の性質は、例えるなら訪問客であり、一時的には受け入れられても、組織内で継続した関係を育むのが難しいのかもしれない、と考えている。

 

 だから、友人が私の次の仕事に関して、就職先を心配してくれるのはありがたいのだけれども、私は企業に就職することを考えないようにしている。組織の一員として機能するには、私は無骨過ぎるのだと思う。だけど、前職を追われたことだけを理由として話せば、そこで偶然遭遇した経験だけで判断することはないじゃないか、次は上手くいくよ、と諭されるだろうし、それ以前のことからとうとうと話したりしたら、何が言いたいのか焦点がはっきりしないだろう。

 過去を全体的に見て、長く続ける仕事を求める為には、これまでと同じ手段ではいけない、変えていかなければならないと考えている訳だけれど、苦渋が理由だと言い張るにしても、どこからどこまで話したら友人が納得してくれるのか、全く見当がつかない。会社で働くのが難しいと考えていることについて、説得力のある単純化された理由が思いつかない。

 

 どこかで読んだ記事で、医師となった方が、その職業を選択した理由を書かれていた。その方は、「上司が尊敬できない人間だったら、会社員を続けることはできないだろう。」と思ったそうで、上司を持つ必要のない、医師になることを選んだそうだ。そのくらいシンプルに、自分の気持ちを理解できていたら、なんて素敵なことかしら、と、切に思います。

できることからやってみる

 気が付くと、前回の記事から2か月経過してしまった。立ち上げの時に目的を明確にしておかないと、こういう状況に陥るものだなあ、と反省しつつ、それでも、今、きばってそれを設定しようと張り切るのも堅苦しいので、まずはゆるりと更新してしまおうと思う。

 

 先日(といってもひと月ばかり経つが)、友人から喜ばしいお知らせを聞いた。

 その件については以前、彼女から悲観的な見通しを聞いていた。ただ、その時の彼女は努めて明るく振る舞っていて、それがかえって痛々しく見えた。彼女とは以前からスピリチュアリズムに関してお互いの見解を話し合ったことがあったのだが、今生での学びかもしれない、とまで口にしたのは、彼女の感じているしんどさに、深刻さを感じさせた。

 だがしかし。いったん決意して現実的な行動を起こしたら、あっという間に上手くいったそうだ。驚いたが、幸せそうな友人の笑顔に、心底ほっとした。

 

 確か、村上春樹さんの『羊をめぐる冒険』だったか。展示された、くじらのペニスの標本のエピソードがあった気がする。そんなことを思い出した。くじらが大きいことは見聞きしていても、それがどれだけの大きさか、見たことがなければ本当のところはわからない。だけど、くじらそのものより大きいはずはない。悲観に引きずられて理性が麻痺してくると、想像の中で、恐れが実際のもの以上に大きく膨らんでしまうものかもしれない。

 

 村上春樹さんの小説で思い出したのだが、以前誰かが、そこに描かれているのはドーナツだ、と言っていた。ドーナツの食べられるところを一生懸命描いていて、肝心な穴の部分を、最終的に描いていない、と。その時の言い方は、皮肉というか、否定的に聞こえた。

 私は村上春樹さんの特にファンという訳ではない。だけど、私にはそれは「ドーナツの穴」と思っている限りは、それしか見えないのだと思う。自由な心持で、素直に受け止めてみると、きっと他のものが見えてくるのではないかな。

 そう言いながらも、村上春樹さんの小説をあまり読んだことがないのですけれどね。そういう期待です。

 

 ともかくは春らしい、ほんのりピンク色に染まったような、ほっとした気分です。

次の年

年が明けてから、結局ひと月も経ってしまった。遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

今年の抱負は、今までどおりを止めること。ここ数年、人生のターニングポイントを迫られていたけれど、何をどのように変えたものか、かいもく検討がつかなかった。昨年を通して、微かな兆しが見えてきたように思う。

私は長いこと、仕事というものに対して抱いていた、固定観念を崩すことができなかった。仕事と家庭との敷居を思い過ぎていた。仕事で何かしら達成しない限り、家庭生活を営むことはできないように思っていた。仕事で具合が悪い時期は、実家に連絡することが憚られた。何かのせいにしたい訳ではない、ただ私が育った環境に、そういう物語があった、それだけだ。

今や、子育て、家事や介護も立派な社会生活として認識されているが、意識に刷り込まれた思い込みが、なかなか思うように払拭できなかった。私にとっては、家庭を省みることも、友人との時間を大切にすることも、まず社会でひとり立ちできてこそ、許されるものだった。そのために、とにかく一人で生活できなければ、と考えていた。これまでほとんど、実家に住まう母や兄弟にも、時間や心を割くことはできなかった。友人との時間も、全て後回しだった。

しかし、この2年ばかり、人の人生はそういうものではないと、痛いほど思い知ることになった。特に昨年は、自分の生き方を全否定するに至るほどだった。

非常に辛い経験ではあったけれども、これからをより実りある生き方に変える、いいきっかけだと思った。

変えていける、変わっていけると、自分を信頼しよう。

 

ダウジング

年末が近づく。気温が下がり、着込む衣類が厚くなり、温かい飲み物が恋しくなる。

この季節になると毎年、道行く人の喜びに満ちた表情が目につくようになる。
大好きな人、大切な人、愛する人。それらの人々と共に過ごせる喜びを待ち遠しく、せわしない日々を過ごしている様子が、はためにも微笑ましく映る。

しかし今年は、違った手触りを感じている。

表面的には皆、幸せそうにしている。笑顔で、喜びの言葉を口にしている。しかしどこか、違うのだ。喜ばしい報告に、冷たさや不安などの暗い影が、見え隠れしているように見える。

誰しも、自分の暗い部分をあからさまにはしたくない。わざわざ目に見える場所に広げて、ひけらかしたりはしない。好印象を持たれるような特性で、自分の個性を埋め尽くそうとする。だから表面的には、いい人を演じているように見えても、ごく当然のことだ。私自身、そういう生き方は社会性を身に着けた人物として自然なことだと思うし、罪悪感を持つ必要はないと思っている。

だがしかし、ここでおかしなことが起きているように見えたのだ。
喜ばしい生活の報告をすることで、不足している部分の悲しみを隠している様子を。
そして、不足している部分を持っている他者を、心の底で強く羨望する様子を。

同時にまた、次のような状況が見えてきた。
上記で不足している部分を持っている他者もまた、別の不足に苦しんでいるのだ。

もしかしたら、喜びに満ちているように見えるのは、苦しみを打ち消すために、デフォルメされ強調された姿なのかもしれない。
どんなに幸せそうに見えたとしても、どれほどの悲しみを抱えているかなんて、わからないものだ。
誰しも笑顔を装いながら、心は満たされずに乾いているなんて、とても悲しい。

本当は皆、ただささやかな喜びを求めているだけかもしれない。
そのひとしずくが得られなくて、渇きを埋めるために生じた別の欲求が、さらにまた大きな空洞を生んでしまうのだろうか。

聖なる夜には、溢れそうな悲しみや苦しみの中から、もう一度、始めのひとしずくを掬い上げようとするような、そんな魔法がかかるのかもしれない。

そんなことを思った。