友人との距離

これは半分愚痴なんですけど、ずっと自分の中でもやもやしていたことなので、感情的な部分の整理も兼ねて、書いてみようと思います。

 

昨年あたりから、友人関係について悩むことが度々ありました。私はどちらかというと、人付き合いにストレスが強い方なので、友人は沢山はいません。なので、友人が少ないことに悩むことはあっても、数少ない友人と長い付き合いがあり、心許せる間柄でした。

事の発端を大局的に見れば、友人らと私は学生時代からの付き合いで、同学年であるため、それぞれが人生の節目を迎える時期であることが、まずあったと思います。

女性が迎える節目として、結婚や出産があります。会社勤めをしている女性にとって、結婚ならまだしも、出産というのは、会社の仕事と並行できない大仕事です。

友人たちは、ある人はその機会を授かり、またある人はそれを望み、人生の節目に差し掛かっていました。

 

そういう時期には、目の前のことに集中している分、他のことに気を回すのは難しくなるのかもしれません。

その頃私は、彼女らの言動の中に、今までに感じたことはなかった、私への要求が突き付けられていることを感じ取りました。

 

離れていかないで

優しくして

もっと私の話を聞いて

私との関係を大切にして

 

これらの思いを受け取って、私が考えられる限りでは、以下のような反応があると思います。

1.寂しい思いをさせたんだね、といたわる。

2.思いを受け止めつつ、彼女らの感情から距離を置く。

3.どうして自分ばかり優先して、私の幸せを願ってくれないのか、と憤慨する。

1.は人としての懐を感じます。できれば2.の境地にはありたいものですが、その時の私は完全に3.の状態でした。

ひじょーに大人げなく言います。

 

あなたにはもっと素敵なたからものがあるでしょー!!!

どうして私に求めるのー!

私のことも、少しは思い遣ってよ!!!

 

そんな不満でいっぱいでした。

私は私で、大きな転機に差し掛かっており、余裕を失っていました。

だから、彼女らの思いが、知らず知らずのうちに負担になっていたんですね。

いつも愛情あふれる存在でありたいですが、心身に疲労をため込んでいては、そうもいかなくなります。つくづくそう思いました。

 

最近ある方から教えて頂いたことなのですが、こういう心の軋轢を抱えるのは、私の感受性によるものだということです。空気を読めるとか、察しがいいとかは美点として挙げられる能力ですが、私の場合は他者の思いを感じ過ぎて、神経を疲れさせてしまうということでした。

確かに、友人がはっきりと口に出して「あなたと疎遠になると寂しい」とか、「私はあなたを必要としている」とか、そう言った訳ではありません。会話や仕草からそう読み取れただけです。いつもと同じようにランチを食べ、お茶を飲み、おしゃべりをしただけなのに、どうして最近はこんなにも気が重くなるのだろう、と思っていました。

はっきり言われてもいないことで、どうしてこうもくよくよするんだろう、と友人のことを思い出す度に暗い気持ちになっていましたが、それは私が友人の気持ちを察し過ぎているということなのだと、やっと腑に落ちました。

 

表向きには表現されていない友人の思いに対し、レスポンスを返さなければならない、というプレッシャーを感じながら、同時に心理的抵抗も感じていたのです。

 

冷静になれば、友人にとっても誰にとっても、自分の幸せを真っ先に考えるのは当然といえば当然で、どんなに恵まれているからといって、不安な気持ちを抱えないとは限らないのも、理解できます。

どんなに幸せそうに見える環境にいる、お姫様だとしても、何に幸せを感じるかは、本人の自由なのです。

安心したい気持ちを他者にぶつけるのは、親しい間柄だからこそできることなのでしょう。

 

しかしながら、ここしばらくのそういうやり取りに、疲れ果ててしまいました。

他者と自分の感情をごちゃ混ぜにして、混沌とした塊でいるのは嫌です。

友人にはそういう、私に圧力をかけているつもりはないと思いますが、しんどいのでしばらく距離を置くこともひとつかと思っています。。

友人関係だけでなく、人と適度な距離感を保つのは、私の今の課題です。

 

教えて頂いたコツとしては、

「こうこう思っているんだね、それはどういうことだろう、自分はどうしよう」

と考え込んでしまう状態から、

「そう思っているんだね、それじゃがんばってね」

という程度に、自分の内面の反応をとどめることだそうです。

一見冷たいように見えますが、相手の感情は本人に向き合ってもらうものであり、それができる人だと、相手を信頼することでもあります。

 

人間、限られた時間の中で、何を求めるかは自由ですよね。

世の中には、知りたいこと、触れたいことは山ほどあります。

そういうものたちにアクセスしていく時間を持ちたいです。

目線をいろいろな方向に向けながら、会話の中で共有し、楽しみたいのです。

 

今は体力的にも、精神的にも休息が必要な時期なので、無理をせず休みます。

パワーを温存できたら、また動き出せるんじゃないかな。その時が楽しみです。

 

しかし休息中とはいえども、風通しをよくした方が気分も新鮮に保てるので、明日は音楽教室の体験に行くことにしました。本当に通えるのか?ちょっと自信がないですけれども^^;

ささやかな楽しみが増えていけばいいな、そう願っています。

大切な時間

今日は
どしゃ降りの中、用を足しに表へ出た。

 

買い出しやら何やら済ませているうちに
気がついた
夏季限定のサンダルコーナーが出店を見合わせたとか
お気に入りの文房具店がお休みだったとか
そういえば今日は帰郷する予定だったが、都合で見合わせたことを思い出し
この雨では地元の花火大会は中止だろうなとか
やけに中止、キャンセルが目立った

 

立て続けだったので
何か象徴的な、虫の知らせのように感じた。

それは
いったん立ち止まる
ということ

 

思うように進むのは理想的だろう
しかし、そうはいかない時も多々ある
そういう時
じりじりした気持ちを味わったり
苛立ったり、焦ったりもするかもしれない

だけどもし、その時間が
大好きな人を待っている時間だとしたら
どうだろう?

 

これは、たぶん
態勢を立て直すタイミングなのだ

今自分が取り組んでいることは
時間がかかるかもしれないけれど
諦めずに進んで行けば
きっと必ず虹の橋が架かって
あの人に会えるに違いないさ

 

そんなことを思いながらの帰り道。

 

f:id:mofugo:20140816180104j:plain


・・・架かった!

 

やっぱり自分の目で見る虹はすごいなあと
改めて思った。

なんだかうれしかった。

清々しく美しい
素敵なひとときだった。

プチリニューアル

夏も峠ですね。夏というのはうっとおしくて、近づいてくると「また来るの!?」とげんなりしてしまうのですが、去り際には後ろ髪を引かれてしまう、不思議なやつです。

 

日頃いろんなことを思い考えるのですが、今のところまとまった時間を取れるのは休日に限られ、それまでに大概のことは忘れてしまいます。たまに書きたいことをメモっておいたりしても、後で見るとその時の「書きたい」気持ちは薄れていて、どうにも手が進まなかったりもします。

そういうわけで、今後はできるだけ、考えた時にちょこちょこ書いてみたいな~なんて思いまして、そのためにも雰囲気を軽めに変えようかと、まずデザインを変更してみました。

 

私はネット世代としてはやや古く、ブログを含めたSNSは、どうしても問題が会った時のことを危惧してしまい、個人が特定されないことに気を取られてしまいます。

だけどそれでは、書きたいと思うことを思うように書けませんし、私という人間について数少ない面からしか語ることができず、それぞれの面がどのように関係して今の私につながっているのか、ということも見えにくくなってしまいます。

人様に読んで頂くことをあまり想定していないブログで恐縮ですが、これまでにそういう点について「書きたい」欲求と「書いてはいけない」という考え方とで板挟みになり、ジレンマを抱えていました。

しかしこのままでは、自分の思考整理を目的としても、求める機能を果たすことができないと思いました。

そこで今後はもう少し、思いきってフランクに書いていこうかなと考えています。

 

勤務先についてなどの、具体的な名称を出すことは控えますが、そういうところは他の方のブログを参考にしながら、気長に勉強させて頂こうと思っています。

 

今後ともよろしくお願いいたします。

ジャイアントケルプの森

 ドラマ『ST 赤と白の捜査ファイル』を観ています。スペシャルドラマを観て、一度ではまってしまいました。主人公の片割れである赤城が、お気に入りのキャラクターの着ぐるみを着て街中を歩くシーンと、引き籠っていた自宅から飛び出して、もう一方の百合根に抱きつくシーンが印象に残っています。特に着ぐるみ姿が可笑しくて、そこでもうバカバカしくなって笑ってしまいました。

 最近の傾向として、「何だかもうバカバカしくて、思わず笑ってしまった」後に、気に入ってしまうみたいです。映画『テルマエ・ロマエ』もそうでした。以前はもっと知性とか、構成の巧みさとかに魅かれることが多かったような気がしますが、おなかの底から小さな爆発みたいに笑いがこみ上げてくるのには、抗えませんね。思いきり笑うと元気をもらえたように感じます。

 

 新しい仕事が始まって、2週間程経ちました。

 経過は・・まずまずといったところです。昔からなぜか期待されるタイプで、期待に応えようと必死になってしまうことが多くありました。人に聞いた話では、見た目で真面目そうとか、優しそうとか思われるらしいです。今回も、教育担当者はおそらく私の能力を高めに見積もっているようです。教科書がかなり初心者向けだったためサクサク進んだのですが、次にかなり経験者向けの本をさらっと渡されてしまいました。しかしながら、身体が第一だということは嫌という程思い知ったので、たとえ呆れられようとも、無理をしないことを最優先しようと思っています。

 

 以前はパソコンがお友達だった私ですが、たぶんその感覚はパソコンでつながった世界の向こう側にいる誰かに感じていた親しみであって、パソコンそれ自体に対してではなかったのだろうと思います。

 ITに興味がなくなった要因のひとつとして、ARという技術があります。

 初めてその技術について聞いた時は未来的なイメージで、話し手と一緒になって興奮していました。けれど、しばらくして熱が収まると、果たしてそこまで面白いものだろうか?と思うようになりました。目に見えている現実に、さらに情報を可視化して追加するという技術です。他にも疑問を感じる話がありました。例えばですが、冷蔵庫の中にあるものを、外出先から確認するアプリの企画などです。

 

 膨大な量の情報から、自分に必要なものを抜き出そうとするのは、知性も要るかもしれませんが、わりとインスピレーションの為せる業だと思います。そういう意味では、活用できる人は直観力のある人かもしれません。しかし私はその点に関して修行中なので、特定の情報を探しているときは便利かもしれませんが、暇つぶしに利用すると多数派の波に飲まれるだけのような気がします。

 また私は元々、もの覚えがあまりよくなくて、現代は大変便利だと思います。ネットで検索すれば大概の事物について読むことができます。しかし、記憶力は低下しているように思います。憶えておかなくても安心、という気持ちが心のどこかにあるよかもしれません。ツールに管理してもらうばかりで、自分の管理能力を手放してしまっている気がします。

 そういうわけで、今の私はITにもARにも、身を乗り出すほどの情熱を感じません。これからの自分には、科学技術に寄与するよりも、内面的な自己の進化を求めたいですね。

 

 あ、でも、『Ingress』ていうゲームは面白そうだと思います。たぶんそうとうやらなさそうだけど。

 

 時には、何も下調べせずにふらりとどこかへ出かけるようなのも、いいのではないかと思います。自分の意志とか、思考を投げ出した時間というのも、必要なのではないかと思うのです。普段は主体性を持った行動を心がけていますが、自分が行動しなければと強く思い過ぎると、苦しくなってしまいます。強く握りしめ過ぎては、滑らかにハンドルを切るのが難しいでしょう。時には力を抜いて、流れに身をゆだねるのも大切なことのひとつだ、そう思っています。

 

 今日は思い出せない単語が沢山あって、山ほど検索しました。慣れない仕事で頭が疲労しているのかもしれません。最後にとどめのようにタイトルがどうしても思いつかなかったので、今後も思い出したい言葉のうちのひとつにしました。

 何か書きたいと思ったにも関わらず、ぽつぽつとしか思い浮かばなくてそうとう時間かかりました・・・おなか空きました。今日はこの辺で。

お仕事のこと

 大変久しぶりに、プログラミングに手を付けることになりました。3、4年程前には夜間学校で学び、どうしてもプログラマにならなければ気が済まない、という思いでしたが、ひとしきり求人に応募して落ちてしまってからというもの、もう自分の人生の選択肢にはないと思っていました。しかし人生というのは不思議なものですね。今になってご縁を頂くことができました。

 ただ、現在はまた別の職種に興味が移っており、面白いものです。そちらの職種に適性があるかは微妙なところですから、しばらくプログラマをしながら続けて様子をみたいと思っています。

 

 プログラミングは面白いものです。私はまだまだひよっこですから、たいしたことはできませんが、いかに効率よく仕上げるかというのは、面倒くさがりをいかんなく発揮するところでもあります。

 

 しかしながら、以前はパソコンとお友達だと思うくらい、PCに向かうのが好きだったのですが、今はそれほどではありません。脱IT化を目指したいくらいです。

 便利になるのはありがたいことですが、そのために不便さを嘆くようなのは、ちょっとごめんです。あれば当然のようになってしまう世界は、味気ないと思います。人の為に便利にするのはよいですが、人が便利になる世の中なんて寒気がします。

 

 つながりたい人とつながるために、現代社会はとても便利なツールを提供してくれています。有効活用することで、過去にはあり得なかったような沢山の出会いが生まれていることでしょう。

 だけどそういう現代でも、直感やご縁によるつながりというのは変わらずにあって、必要な道を開けてくれるのかもしれません。

 

 実は、採用された会社の人事ご担当者が、私と同じ趣味をお持ちだったのです^^

 しばらく(無理せず)がんばろうと思います。

ありのままの・・・か

 ここのところ目に・耳にする機会が増えたフレーズですね。私は期を逃してしまい、未だ映画を観れていません。思うところがあったので、考えをまとめてみたいと思います。

(今回から、書き方をです・ますで統一してみたいと思います)

 

 私は、人目に立つことが苦手です。私の名前を明々と明示することも、考えただけで気が遠くなりそうです。この性質のために、なるべく沢山の人がいる職場を選んで、多数の中に埋もれるように、隠れるようにしていました。

 思想犯として追われた前世があるのではないかと思う程、奇妙な恐怖心を感じるのです・・

 しかし、キャリアを重ねれば、そういう多数の中に居続けることが難しくなります。責任ある立場は、より大きな視点から見れば、もちろんそれも多数ありますが、分割されたひとつの組織の中では、数少ない存在になります。その人だから、任せられる。どういう人物であるかが、注目されることになります。

 組織の中でなく、個人で仕事をするのであれば、なおさらでしょう。

 

 恐らくこの、人目に立つことへの恐怖心が、私が感じている仕事のやりにくさに関係しているのだと思います。

 

 以前から理由を探っていましたが、ひとつ、面白い発見がありました。

 私は西洋占星術が好きで、時々読んでいます。その中で、「月の星座」についての考察がありました。普段よく目にする、生まれた時に太陽が位置していた星座とは異なり、月が位置していた星座です。子供時代や、感情などが象徴されるそうです。感情的な面としては、仕事でやりがいを感じられるのはどういう場面か。ということも、傾向を読み取れるとありました。

 私の月の星座は、獅子座です。その解釈は、個人として識別される、個性が光るような、個人としてのキャラクターが立つ場面でもっとも輝く、喜びを感じる、というものでした。

 どうも、私の性質とは真逆のように見えます。これについて、自己矛盾だろうか。一体どういうことだろう。と考えていました。

 もしかしたら?と考えました。例えば、すごく好きで、この人でなければ添い遂げたくない、と思っている異性がいたとします。もし気持ちを伝えて拒絶されたら、とても生きていけないように思えます。そういう状況では、なかなか想いを打ち明けられないかもしれません。

 それと同様に、 心の奥底で強く求めているからこそ、恐怖心も大きいのではないか?と考えてみました。

 そうすると、なんだかしっくりときました。以前、未経験の職種に転向しようとしたのですが、その時はその仕事への憧れが強くあって、無性に怖くなってしまいました。大変緊張してしまい、うまくいきませんでした。

 

 思い出してみると、女子高の頃に、HR委員を担当したことがあります。みんなに意見を求めたり、その意見から企画を立てて実行したりしましたが、大変楽しかったことを憶えています。大学の頃も、打ち解け合った仲間たちの間では、個人的な意見をはっきりと言っていました。

 ありのままの自分、こうありたいという自分は、気づいていない(あるいは忘れてしまっている)、意外な面もあるのかもしれません。そんなことを思いました。

 

優先順位

 数回「十二月の窓辺」の感想を書こうと試みたけれど、うまくいかなかった。どうしても、自身が受けたパワハラの体験を、引き合いに出そうとしてしまう。それはどうしても避けたいので、残念だけれど、今回は見合わせることにした。

 

 昨日、日常タスクの優先順位を考えていた。しばらくぶりに、やることが増えたためもあると思う。いい機会なので、それについての考えを深めてみたいと思う。

 

 昨日の時点で、↓の順に取り組むと、順調にこなすことができた。

優先順位ー高ー

 自分の身体に関すること(食事とか)

 自分の望みに関すること(夢、今後の希望)

 愛情に関すること

 生活に関すること

 友情に関すること

優先順位ー低ー

 

 たぶん、こういうところを忘れると、食事を抜き気味になったり、あることをしながら別のことが気になって集中できず、余計に時間がかかったりするのだろうと思った。

 過去を思い返すと、「生活に関すること」に向ける意識が強くて、自分の望みに目を向けなかったり、愛情関係をおろそかにしたりしたことが多かったように思う。その意識も、興味・関心を持つというよりは、どちらかというと強迫観念のようなもので、~しなければならない(=~できていない)、という罪悪感の塊だった。恐怖心で思考が固くこわばっていて、生活のための知恵を本で読むようなことも、しようとしなかった。

 春頃から図書館に行く機会が増え、生活のための知恵に関する本を目にする機会も増えた。お金の管理の仕方についてのアドバイスだけでも、沢山の本があることを知った。大昔に保険会社のセールスをしたことがあり、分かった気になっていたところもある。めぼしいものを読んで、将来に備えるお金だけでなく、今必要なお金についても考えることが大事だと理解できた。ただ使ってしまうのでも、貯めるだけでもなく、趣味や学習を含めて、バランスを考えることが豊かな生活につながるのだと思った。

 

 私は長い間、無趣味だった。休日にすることといえば友人とのランチくらいで、たまにそれに映画が足される程度だった。同僚たちが趣味の話で盛り上がるのを、ただ羨ましく思いながら、眺めているだけだった。だから、趣味やそのための学びに時間や経費を割くこともなく、より仕事中心の毎日を邁進するばかりで、心の中は充実感がなく、空っぽだったような気がする。職場で評価されるととても嬉しくなってしまったり、評価が落ちるとショックを受けたり、他者からの評価に冷静でなく、過度に過敏だったのも、もしかしたらその心の空虚さのためだったかもしれない。

 

 そんな私だが、今は趣味と言えるものがある。そのことを考えるだけでも、気持ちが嬉々とする。趣味に没頭する時間は、幸せなものだと知った。

 そんなわけで、趣味に時間を割いてもいいんだ!と、今は素直にそう思う。ここでは趣味を例に挙げたけれど、それは「自分の望みに関すること」であって、「わくわくする、ときめくこと」なのだと思う。

 「愛情に関すること」は、無意識にいくらでも優先してしまうので、意識的に順位を抑えるくらいがちょうどよいかと思った。

 

 まとめてみると、自分の内側に関することが最優先で、外側に向かうにつれ優先度を下げていこう、ということですね。こんな基本的なことを、今になってやっと理解したのかと思うと、やれやれという気持ちです^^;ちょうどおなかが鳴ったので、このあたりで終わりにします。