徹底的に戦わない

 職場を追われた時の夢を見ました。心理的なトラウマを解消する手法の一つに、その時のやり取りを思い出し、追体験するというものがあります。おそらくこれは、自己治癒力として発動しているものなのでしょう。

 

 世の中にはいろんな方がいらっしゃるもので、中には好んで争う方々もいらっしゃるようです。正直なところ、私はそういう方たちが苦手です。私自身は、お互いの見方がそれぞれあるので、一概にどちらが正しいとは言い難い、だから争うことに正当性はないと考えていますが、私も人間なので、個人的な感情があります。感情的に火がつくと、冷静さとは程遠くなりますので、その前に衝突を避けるのが習性になっています。

 

ひみつ

 蠍座は秘密主義だという。私は蠍座だけれども、主義とするほど秘密を持ちたがるというほどのことはない。だけど、もし個人が持つ秘密の数の平均値があるとしたなら、もしかしたら、平均よりは多いかもしれないと思う。このことについて書こうと思ったのは、結局のところ、自分が知る情報を「可能な限り早く伝える」ことができるなら、秘密を持つ必要はない。「伝えない」、もしくは「時期を待って伝える」場合、それは伝えるまで『秘密』ということになる。私はよく、人との会話について、言うべきか、言わざるべきか、をとても迷う。その結果として、秘密を抱えることが多いように思う。この自分の迷いについて、どういうものなのか、考えをまとめたいと思ったからだ。

 

 いきなり自分の思いを述べてしまうと、秘密は誰しも抱えうるものだと思う。例えが卑近で恐縮だが、居酒屋や食事処で、個室のある店が人気がある理由は、なんとなく理解できる。心を落ち着けて、ゆったりとくつろぐことができるためには、ある程度周囲から遮断された、隠された空間であることが必要だ。人間関係でも、打ち明け話をするのは、関係の深さによって相手を選ぶものだ。

 

 時期を待って伝えるのは、その情報の確からしさがあいまいな場合や、いきなり伝えても理解してもらうのが難しいと思われる場合、などがある。

運命の相手

 ソウルメイトって概念を見聞きしたことがあります。

 興味があって、そういう系のブログをチェックして、最近思うことがあります。

 

 運命の相手と巡り会うって、ロマンティックてすてきだと思います。

 

 ただ、概念に縛られすぎる必要ないような気がするんですよね。

 それを求めすぎる必要って、そんなにあるのかな??

 どきどきはらはらすることばかりが、恋愛じゃないと思うんですよね。

 ほんのりあったかい関係でもいいんじゃないかな??

 

 適齢期とか、気にしなくてもいいんじゃないかな。

 丁度いい関係って、そんなに求めていかなくても、出会えるタイミングがある。

 そうなんだなって思いました。

 

漠然とした不快感からの脱出

 一般的に市販されているシャンプーの、無性に泡立つのが嫌でたまらない。どれだけ流しても、ぬめった感触が取れないように感じる。

 そのため、石鹸をシャンプーに、酢をトリートメント代わりにして過ごした時期もある。市販のシャンプーよりすっきりとして、気分も爽快になるので気に入っているのだが、どうしても洗い上がりの手入れが大変になる。また、市販のシャンプーと比較して環境によいかというと、どうも微妙な情報が多い。(浴室の排水溝にもかすがつまり易いので、まず環境に優しいとは思えない)

 

 そして……最近、何だろう? やたらと香りを付けた製品が、多くないだろうか……??

 

 以前、ある理由で精神的に不安定になった時があり、その時に感じたことがある。人が感情的に落ち着いた生活をするために、「匂い」はかなり重要であると。

 そういう時も思考は変わらず働くのだが、周囲の人々との心情的な繋がり感が薄くなってしまうので、感情的に落ち込んだり、イライラしたりしていた。私は自分の気持ちを落ち着かせようと、ひたすら「自分の匂い」を探していた。(しかしながら、一時は入院したので、「自分の匂い」が見つかるはずもなく、非常にしんどかった)

 その自分の行動は考えてしたことではなく、とにかくそうせざるを得なかった部分で、本能的なものだと思う。そして恐らく、私は一人暮らしのため「自分の匂い」を探していたわけで、家族住まいの方であれば、それは「家族の匂い」であったり、「家そのものの匂い」であったりするのかもしれないと思った。(他人の家へ遊びに行くと、家固有の匂いのような、独特な匂いがあったりするものだ)

 また、心情的な面を考えると、育った環境の匂いは最も影響が強いのではないかと思った。安心する匂いの代表として、私は三十幾つを数えた今でも、幼いころに嗅いだ母の手の匂いを思い出す。

 

 そういうわけで、押しつけがましい香りがなくて、嫌なぬめりもなく、洗い上がりがすっきりとして、さらに環境にも配慮したシャンプーという、おいしい話がないか探してみた。すると、なにやら「美容師さんの手に優しい」らしい、愛あるシャンプーがあるそうだ……!(業務用のため、単位当たりの価格も良心的。デメリットは、量……)

 満足できずに、それでも仕方なしに、何となく市販のシャンプーと石鹸とを交互に使用していた日々が、変わるといいなあと思う。結果の良し悪しを後日記載したい。

誰かのために書く

 文章を読むのはあまり得意ではないけれども、特に好んで読んでいるブログが幾つかある。つくづく文章は書く人によると思う。この人の文章は分かり易いなあ、読み易いなあと思うと、どの記事を開いても、その点のクオリティはほとんど変わりがない。長期に渡り書き続けている方のブログでは、始めこそたどたどしい様子が残っていたりするけれども、それすら軌跡のように感じられて微笑ましい。

 

 先日とあるブログを読んでいて、気になるフレーズがあった。「書きたいことを書くだけでなく、読んだ人が学んだり、何かを吸収できるように意識して書くとよい」という内容だった。この一文がとても心に残り、今の自分に必要なことのように思えた。

 そこで改めて、他者が読んだ時にそのように受け取れる何かを、私は持ち合わせているだろうかと考えてみた。しかし、私自身日々人生勉強であり、人様のためになれるような何かを内に秘めているとは、どうしても思えなかった……。

 

 それでも、日々考えあぐねているよしなしごとを、もしかしたら同じように考えている誰かがいるのではないか、という希望をどうしても捨てられない。

 それに、経験を共有すること、されることは、孤独への癒しであり、誰にとっても重要なことなのではないだろうか...…

 

 まあそういうわけで、相変わらずの思いつきで続きます。^^

ゆっくりと死んでゆく世界

 以前から感じていた違和感が、やっと明確になってきた。

 

  以前(2~3年前位だろうか)、所ジョージさんが言っていたことがある。

 「皆で毒を薄めて飲んで、ゆっくりと死んでいく世界」

 その時「正にその通り」だと思ったけれども、具体的な、明確な事例は浮かんでこなかった。

 このことに関して、言葉になってきた部分がある。

 

 現代人の多くが従事しているであろうデスクワークは、ある程度の時間、同じ姿勢を取り続ける必要がある。その間、目を使い、手を使ってキーボードを操作する。

 これは、見た目上は労働というには動きが少なく見えるものだろう。しかし、目も手も細かく動かし続けるし、同じ姿勢を取り続けることで、筋肉は固くこわばる。これだけでも、身体は疲労する。

 また、人間は集中力を長時間継続できるものではない。勉強熱心な受験生にはよく言い聞かされることだが、効率の良い学習のためには、ある程度集中したら、少しでも休憩を挟むことだと。

 

 以前から薄々感じていたことだが、デスクワークが主なオフィスでは、キーボードを操作する手が動いていないと、「仕事をしていない」と見なす人もいるようだ。

 しかし、その間も頭の中では思考しているものであり、精神活動を行っている以上、エネルギーを消費し、立派に「労働している」のだ。そもそも、オフィスワークに対する認識自体が、「肉体労働よりは楽」という固定観念が強い気がする。

 

 このあたりに違和感がある。

 

 つまりは、見た目上の「動き」=「労働」とする観念なのだと思う。だからこそ、「より多く身体を動かしている」⇒「真面目に働いている」という図式が成り立っているように思う。

 

 そして、この観念が、オフィスワークをストレスフルなものにしているのだろう。

 見た目上の動きのみを労働と見なす思考は、あまりにも古過ぎるというか、合理的でなさ過ぎる。さらにはその思考に縛られているが為に、誰がより仕事をしているとか、していないとか、そういう不信感や不満を増長させているように見える。

 

 プログラマという業務は、いかに効率的な(その中には他者とコミュニケーションが取り易いとか、メンテナンスし易いとか、単に短縮されているというだけではない様々な意味が込められているはず)コードを書くかということがまずある。そして、プログラミングされたソフトウェアを作成することにより、人々が日常にある雑事を効率的に済ませる手助けができる。さらには、人と人や人と物、誰かと誰かや、誰かと何か、などの橋渡しをすることができると思っている。

 

 しかしながら、自身の経験と人伝に聞いた話からすると、どうもオフィスというのは私が思っていたような創造性とは程遠く、まるで相互監視システムのようだと思った。

 監視体制に特に手を貸しているのは、個人の劣等感のようだ。劣等感が強いが故に、他者を抑え込むことで己を有利にしようとしているように見える。特に管理者などの立場にそのような人物が立つと、場の空気まで染まるから、厄介なものだ。

 

 そもそも、自分の仕事に集中しているなら、どうしてそんなにも人を観察する時間を持てるのだろう?不思議でならない。

 

 2年ほど前、ひどい目にあって自主退社を余儀なくされた、会社の夢を見た。

 「辞めてよかった!」と叫んでいた。

 思い出すのはもちろん嫌だし、夢に見ることなんてこれまでなかったので、何かしら自分の中で、昇華した部分があるのだろうと思った。

 

 それにしても、薄めた毒をこっそり捨てるやつがいないか、お互いを見張りながら毒を飲み合う(飲ませ合う)って、一体何のプレイなんでしょうね?

 根底にある信頼感が薄過ぎるように思います。。

 私はそんな世界はごめんです。

人の数だけ愛がある……はず

 愛された経験のある人は、人を愛することを臆さないといいます。子供の成長過程では、十分に愛情をかけることが大事だといわれます。

 

 では、十分な愛情を受けずに育った人は、人を愛することもままならないのでしょうか?

 

 私は、そんなことはあり得ないと思います……なぜなら、もしもそれが本当なら、誰が今の世に愛というものの存在を繋いでくれたのでしょう?どこかで愛情が途切れてしまったなら、その場所から命を受け継いだ人々は誰も愛せなかったのでしょうか?そんなはずはありません。あらゆる場所が愛に溢れているとは、言い難いかもしれませんが……それでも、確かに私はこれまでに、愛で結ばれた人々を目にしてきました。

 

 もしも十分な愛情を受けた記憶を思い出せないのであれば……まずは自分に愛情をかけてみることが大切なようです。私自身は……清水の舞台から飛び降りるくらいの気持ちで、愛する人に思いを伝えてみたところから、心がしなやかさを取り戻し始めたように思いますが……それは幸いなことだと思っています。相手と状況によっては、かなり荒療治かもしれませんね?

 

 そうして自分の心と向き合っていくと、記憶に埋もれていた、愛されていた思い出が浮かび上がってくるかもしれません……親族、血縁ではなくても、偶然通りがかっただけの存在であろうとも、精一杯の心を傾けてくれた誰かの優しさを、ふと思い出すことがあります。

 

 この記事を書く前に、ぐねぐねと頭の中で考え事をしていて、いくつもまとまらない記事を作成してしまいましたが、結局のところ、文句を言いたい訳ではないんですよね。あれが駄目だとかこれが嫌だとか、そんなことばっかり言っていても何にも変わらなくて、これからの自分が何をしていくか。自分ができることは、それしかないんですよね。

 他人のブログを読んでいて、こんな風にきっぱり言い切れたら気持ちいいだろうなとか、こんなにも分かり易く書けてうらやましいなとか思っても、それはその人自身の経験の積み重ねがあってこそのもの。自分の言葉で語っていない、実感の伴わない文章は、どうしてもそれとなくにじみ出てしまうものです。

 自分で思いを書き出したり、思考をまとめたりすることは、根気強く繰り返しやっていくことですね。

 ブログの文章が上手い方を見つけると、その方が自分と同じ思いや考えを綴ってはいやしまいかと、つい記事を読み漁ってしまいます。もしそうであれば、自分で書く手間が省けるではありませんか……笑

 

 私の人生は効率とは無縁のようです。。それでもあきらめませんけどね。^^